AfroA Perspectives 31
暴動、反乱…それとも革命?
Takuan Amaru

 

 

「この騒乱は悲しみを訴えるものではない。もしくは声明でもない…。これは人名を脅かす危険な行為でしかない。騒乱がもはや、ジョージ・フロイドの殺害とは何ら関係ないものになっている。混乱が引き起こされたにすぎないのだ」

ティム・ワルツ州知事(米ミネソタ州)

 

暴徒は殺害事件に対して声明を出しているのか、それともただ単に混乱を引き起こしているだけなのか?この騒乱は、今回新たに起こった人種差別的殺人に抗議する正しい方法なのか?警察によるジョージ・フロイドの非人道的な殺害は、ミネソタ州のみならず、米国中で抗議運動を引き起こす結果となった。

近年、警察による数多くの(あまりにも多すぎる)残虐非道な事件では、警察が市民を守る役人というどころか、民間による人種差別の軍隊や賞金稼ぎかのように機能している。このことから、三人の警察官を従え、膝でフロイドの首を押さえつけたデレック・チョーヴィン警官(白人男性)の姿が、Zo Williams(トークショーのホスト役である黒人男性)が呼ぶところの「アメリカ社会の再建(新たなアメリカ)」を象徴していると感じる人も多い。

ジョギング中に白人親子に射殺されたアマード・アーベリー(ジョージア州)や、警官の制服に身を包んだリンチ集団に殺害されたブレオナ・テイラー(ケンタッキー州)のいずの事件を詳細に調べたとしても、上記の点において議論の余地はないだろう。

 

 

ドレッド・スコット判決は有効か?

 

1857年、アメリカ連邦最高裁判所は、転換的な事件となった「ドレッド・スコット対サンドフォード」事件において、奴隷であるか否かに拘らず、黒人が憲法上、アメリカ市民に含まれないとした判決を下した。したがって、憲法が市民に与える権利と特権は、黒人には与えられないことになった。

エリック・ガーナー、フィランド・カスティーリャ、マイク・ブラウン、サンドラ・ブランド、オスカー・グラントなどからエメット・ティルに至るまで、これらの黒人殺害事件を検証すれば、米国政府が一貫して、この判決に従ってきたことになる。つまり、黒人が白人と同様に、法の下で守られることはないということだ。

統合主義者、自由主義者、楽観主義者、クーン(注1)は、ドレッド・スコット事件の判決が合衆国憲法修正第13条と第14条に取って代わられたことで、奴隷制が廃止され、黒人の市民権が保証されたと主張するが、これはウィリー(ウィリアム)・リンチの手紙(注2)が作り話だと論じるに値するほど無意味で馬鹿げている。実際、ウィリーという名の守旧派が書いた手紙が存在したか否かを、誰が気に留めるというのだ?ここで重要なのは、今日にいたるまで、手紙の中に記されている戦略が黒人を分裂させ、対立させ、互いにいがみ合わせるために使われてきたということだ。つまり、状況に大差がないなら、「分割統治」戦術(支配される側を分割することで、統治を容易にする手法)に使われる呼び名など、何でもよいのだ。また同様に、数多くの抜け道が存在する。黒人から権利を奪い続けるために毎年打ち出される新政策に関しては言うまでもなく、現代では黒人の命は実際、重要ではなくなっている。(この点は、エイミー・クーパーに聞けば明らかだろう)

 

注1:差別主義者の白人に媚びを売る黒人、黒人の裏切り者。

注2:ウィリアム・リンチ演説とも呼ばれ、1712年にバージニア州のジェームズ川の土手で、ウィリアム・リンチ(またはウィリー・リンチ)という人物が、植民地内での奴隷の管理について聴衆に向けて行ったとされる演説である。

 

 

「暴動は声なき者たちの言語」 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

 

ミネソタ州の知事であるティム・ウォルツ氏は、土曜日の午前1時30分頃、ミネアポリスにおける暴動、略奪、放火が激化し、危険が高まる中、次々に起こる騒乱の夜の後に、マスコミに向け声明を発表した。

 

「はっきりさせておこう。ミネアポリスの今の状況は、ジョージ・フロイドの殺害とは何ら関係ないものになっている。市民社会を攻撃し、恐怖を植え付け、そして私たちの素晴らしい都市を破壊しているにすぎない」

 

同知事はさらに、暴徒により「インフラ」や「何世代にもわたって築き上げられたビジネス」が破壊されていると話した。表面的には、支持するに値する発言のようにも聞こえる。だが、それも歴史をざっと見渡し、ウォルツ知事が最も重要な部分をすっ飛ばしていることに気づくまでだろう。同知事は、自らが言及しているまさにそのインフラの基礎に、黒人の存在があることを無視しているのだ。言い換えれば、これらのビジネスが確立され、繁栄してきたのは、黒人により惜しみなく与えられた血、汗、涙のおかげだと言える。さらにこれは、黒人から略奪した土地や資源のもとで行われたのだ。

したがって、ミネアポリスの路上(他の場所も含め)に出ている人々の大部分が、騙された黒人たちの子孫だとするなら、これは詩的正義(善行・悪行が結果的にいかにもふさわしい報いを受けること)ではないか?政治家は、歴史家やジャーナリストらとともに、すでに私たちが事実であると認識しているある事柄を、是が非でも認めようとしない。その事実とは、黒人がアメリカ大陸の先住民だということだ。この点について、メディアが黒人ではなくヨーロッパからの移民をアメリカ人として表現するのにはうんざりする。実際、彼らがこよなく愛するクリストファー・コロンブス(Cristobal Colonだが、誤ってColumbusになった)に始まり、数多くの探検家たちは、自らの日記に「アメリカ大陸の元々の先住民が『銅の色』をしている」と記している。混乱してきた人は、平均的ないわゆる「アフリカ系アメリカ人」と、いわゆる「ネイティブアメリカン」の肌の色を、古いペニーの色と比較してみるといい。コロンブスが、誰のことを先住民と呼んでいるのか?

バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアといった探検家たちも、新世界(アメリカ大陸)に到達した際、「黒人」を見たと記録している。この点では、メキシコの著名な歴史家であるニコラス・レオンの記録とも合致する。彼の報告によると「メキシコ最古の住民は、黒人だった」と話す先住民の説明が明らかだ。

 

したがって、暴動について論争する前に、(メディアによって提示されたものだけではなく)どうか問題の真の原点について調べてみていただきたい。

 

 

暴動から革命へ:「あとの者は先となり、そして、先の者はあとに」マタイ20章16節

 

一度、人種差別や白人至上主義といったシステムが存在しない世界を想像してみよう。洗脳されてしまった黒人の多くは、この概念を口にするだけで、不安を感じたり、困惑したりするかもしれない。これは、彼らがこの生涯で(おそらく前世でも)耐え忍ぶことしかできなかった数多くのトラウマ的体験によるものだろう。ホミ・K・バーバは、フランツ・ファノンの 『地に呪われたる者』(The Wretched of the Earth)のまえがきでこう書いている。

「抑圧された人々が、自分たちの不安やもろさを自覚し続けているとしたら、自由で公正な社会、国民意識を確立するために必要な、永続的強さを見いだすことなどできるだろうか?」

この「不安ともろさ」はどこから生まれたのか?ほとんどの人は、奴隷所有者が黒人の男たちを家族の目の前で拷問したり、手足を切断したりした事実を知っているだろう。もしくは、自分の妻がレイプされるのを強制的に夫に見せたり、さらに残酷なことには、妊娠中の女を逆さ吊りにし、腹を引き裂いたりしたのだ。あらゆる場面で、黒人のイメージは日々攻撃されているが、それに意識的に気がついている人たちは、あまり多いとはいえない。こういったトラウマは、私たちがいたるところで目にする茫然自失、自信喪失した男性を生み出すのに、大きな役割を果たしている。これは、黒人男性が(実際に行動を起こす代わりに)iPhoneを取り出し、別の黒人(特に女性)に対して非人道的な行為を行っている警官の動画を撮り始めるといった行為に、顕著に表れている。その結果、黒人女性は守ってくれる男性がいないと感じ、自分が自立しなくてはと強く思い込む。そして、無意識に男女の役割を逆にして子供を育てることになる。勇気ある若者は逮捕されたり殺害されたりするのではないかという恐れから、精神的に弱く、依存心が強い人間に自らの息子を育て、逆に娘には、自分のように強く自立した女性になるように教える。

 

このリバーストレーニング(男女の役割が逆の子育て)の結果、ベータメイル(注3)がはびこり、統率の取れない非道徳的な社会、つまり私たちが今日暮らす社会が出来上がる。ウィリアム・リンチの手紙によると、「守ってくれる男性のイメージを破壊し、従順で依存心の強いマインドの奴隷男性を作り出すことで、奴隷女性を心理的に自立へと向かわせる。このサイクルは、軸の周囲を回転するように永遠に回り続けるだろう。何らかの現象が起こり、奴隷男性と奴隷女性の役割が本来あるべき姿に戻らない限り…」

 

注3:支配される側の男性または雄。ベータメイルの逆はアルファメイルで、群れのリーダーを指す。

 

 

暴動は、この「現象」が発生するきっかけになるか?

 

暴動がこの「現象」のきっかけにならないとしたら、臆病で依存心の強い状態から黒人男性を目覚めさせるためには、何が必要なのか?いずれにせよ、自ら立ち上がり、行動を起こす勇敢な若い戦士に、私は敬意を示したい。

 

暴動の責任を白人至上主義の政府の足元に置く勇気がなく、暴徒が問題であると主張する人には、ソウルダッド・ブラザーズの中でも最も有名な、ジョージ・ジャクソン自身の言葉を贈ろう。

 

「私がこの行き詰まった状況を作り出したわけではない。あなたはそうほのめかすが、私はこの破滅的な状況で起こっている問題と、何の関係もない。私がこの地を植民地化し、人々を誘拐し、自分自身に戦争をしかけたのか?私が自分の制度を破壊し、自分自身を奴隷化し、自分を利用し、自分をなおざりにしたのか?私が自分のアイデンティティを盗み、そして何の価値もない存在に貶め、決して対抗することができない競争力のある経済を生み出したのか?非常に愚かに聞こえるが、これが、私や『私たち』に責任を押し付けるときに、あなたが示唆していることなのだ」

 

ジョージ・L・ジャクソン

 

神よ、死者を祝福せよ!

 

Takuan Amaru:三部作『Gaikokujin – The Story』の著者

Nippon Series 17: Do Women have Rights? 女性に権利はあるのか?
Takuan Amaru 天流沢庵

 

「世界一安全ともいわれているこの国、日本で、私は3歳の頃から性暴力にさらされ、慣れさせられ、上手にあしらう方法を身に付けさせられてきました」

#Me Too / #We Too集会 スピーカー 後藤稚菜

1989年、晴野まゆみ氏は日本の裁判でセクハラの正当性について初めて挑んだ女性としてマスコミに大きく取り上げられた。彼女は、勤めていた出版社で上司から「男遊びが激しい」、「不倫している」等の不適切な言葉を繰り返し言われた。上司の不品行について社内当局へ報告したが、後に彼女は辞職を命じられる。最後に職場を去る際の上司からの侮辱的発言が今も鮮明に思い出される。「次の就職先では男を立てることを覚えなさい。」晴野まゆみ氏はこのことを裁判へ持ち込み、最終的に「働く女性の評価を低下させる不法行為」として165万円を勝ち取ったものの、彼女によれば「状況は30年前から変わっていない。」

 

Japan’s Version of #Me Too  日本版 #Me Too

ニューヨーク市でのハーヴェイ・ワインスタインのレイプ裁判に世界の注目が集まり、#Me Too運動は世界中で盛り上がりをみせ続けている。何でも欧米化しようという意気込みで、日本では少なくとも4つの類似したテーマ及び、関連した運動が設立されている。#Me Tooに加えて #We Too、フラワーデモ、そして不思議な名前の #Ku Tooがある。

 

#Ku Tooの “Ku”は、 日本語の「靴(ku-tsu)」の最初の音節をさしている。「女性はハイヒールを履くべきという社内ドレスコードは差別的である」、と感じている女性は日本には少なくない。この事実を受け、女優/フリーライターの石川優実氏は #Ku Tooキャンペーン開始を決めた。筆者が話した女性達によれば、#Ku Tooを含むこれら全ての運動は、その事実を認知させるために必要不可欠な基盤を性的暴行/ハラスメントの被害者に提供したのである。その活動や団体に対して賛否両論はあるだろう。しかし無視できない点は、たとえそれが正義の名の下であったとしても日本では自己弁護という行為は、「出る杭は打たれる」と容易に解釈され、当然そのような突起物は是が非でも打たねばならないとされる点である。つまり、この「黙させる」動きに、レイプのようなトラウマ的犯罪被害者でさえも加担していることには心を煩わされる。

 

それが故に、山口敬之氏に330万円の支払いを命じた東京地方裁判所の判決を受けた伊藤詩織氏は、裁判所の外に立つ必要性を感じたのであろう。その手に持った垂れ幕には「ざまぁみろ!そうよ、訴えてやったわ!」と書かれている。というのは冗談で、実際には、「裁判に勝った」ことを意味する「勝訴」と書かれている。告訴状提出後の日本における反感は非常に容赦なかった。元TBSワシントン支局長であり、安倍晋三総理大臣の伝記著者でもある山口敬之氏を訴えることは暗黙のルールに則っていない、いや寧ろよくないことなのだ、たとえもし事実レイプされていたとしても!と、ヘイタ―や反対論者達は伊藤詩織氏を日々攻撃した。その攻撃から逃れるべく、当時、伊藤詩織氏はロンドンへの移住を余儀なくされた。この事実が上の写真に写る、勝ち誇って殊勝な詩織さんの表情の理由だ。言い換えれば、伊藤詩織氏は彼女を威圧、動揺させようとした攻撃の件を判決後、再び持ち出す機会を逃さなかったのだ。そんな彼女を一体誰が責めることができようか?

 

性差別は行くところどこにでも、まるで重力のように存在する。もはや自然の一部。*

上野千鶴子(東京大学 社会学教授)

 

Feminism = A Western Construct フェミニズム=欧米の構成概念

「今日、世界では、日本は人権意識が欠如した性差別国であるという印象を持っている」と、 早稲田大学教授 浅倉むつ子氏は言う。しかし日本社会は極度に性差別的だろうか。Sharazad Ali氏のような有識者は、ご存知の通りフェミニズムとは主に「白人女性とそのパートナーとの闘いに関するもの」であると主張しており、従って伝統的文化背景をもつ女性達にとってフェミニズムはほとんど無関係なのである。西洋文明の起源をざっと見ると、女性エネルギーに対する嫌悪感が露わになる。初期ギリシャ時代、男性が理想的な恋人を思い描く際は、女性よりも若い少年を思い描く傾向にあった。ギリシャとローマでは霊的パンテオン(訳者注:全ての神々のグループを指す)を、アセット、マアト、セメット、その他多くの女神を崇拝していた古代エジプトから取り入れていたため、女性の神格も存在した。エジプトの神・ネイトの模写であるアテナのように尊敬を集めている女神も多少はいるが、しかし、父親(ゼウス)の頭蓋から飛び出したという理由から、欧米作家の多くはアテナが女性であると認めない。代わりに彼らはアテナを「ニュートラルな性」と銘打った。稀にある例外は置いておくが、ギリシャ神話やローマ神話に出てくるほとんどの女性は人間か天人であり、主演男性に引っ付いている相棒的キャラクター(ハリウッド映画での黒人と白人の関係性のようなもの)か、あるいはレイプ、近親相姦や誘拐の被害者として登場する。既婚女性を守護する女神・ヘラでさえ、夫・ゼウスから無礼な扱いを受けていた。様々な神話の記述によれば、この神々の女王の特質を最も明瞭に表しているのは恐らく嫉妬、つまり夫の数多の愛人と、その間に産まれた子供に対する執念深い気質であろう。初期の神話の影響はローマ皇帝・ユスティニアヌスの下、6世紀までにはキリスト教に取って代わられた。同性愛は「道徳に反するもの」であるため、死をもって罰すべき犯罪だとユスティニアヌスは宣言した。しかし、キリスト教が社会における女性の地位を向上させることは一切なかったことは、聖書「使徒パウロからテモテへの第一の手紙」をみれば明らかである。

 

女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。

(テモテへの第一の手紙 2:11-2:13)

 

着目すべきは、神の名がヤハウェ、エホバ、アッラー、イエス、主、父なる神、神の子のいずれであろうと(精霊でさえも)、ユダヤ教及びキリスト教の神格は彼(Him)と呼ばれたことである。全て男性主体でつくられた神話的形式であり、女性エネルギーをほのめかすことは一切ないような社会は、(まだ)本質的に同性愛であると仮定することははたして間違っているのだろうか?まぁ、この時代の画像を調べると、ほぼどれも彼らの男性に対する特異な好みの証拠を隠してはいない。事実、画像の多くは全て男性売春宿のようにみえる。

 

これに対して、アフリカ、アジア、さらにはアメリカにおける、より伝統的な神話の形式は完全に異なる。古代の世界では、神聖な女性が十分に表現されているだけではなく、尊敬もされている。日本では「宮中祭祀」は祖先から由来しており、万世一系の第一にあたる天照大神は女性である。日本の祖先祭祀の権威、穂積(ほづみ)陳(のぶ)重(しげ)教授によれば、仏教、儒教、西洋文明(穂積陳重教授が言うところの「三箇の外國的元素」)へ専心しているにも拘わらず、日本人、つまり「神道信者、仏教徒(またはキリスト教徒)は全て先祖崇拝者である。」 Alfred Stead氏は著書 “Great Japan; A Study of Efficiency”の中で、仏教と儒教の伝来前、「男性と女性は社会的地位においてほぼ同等であった。男性は全、女性は無、というような教養のない考えの影は当時全くなかった。」と説明している。女性は計り知れない政治的な力も持ち合わせており、古くは9人もの女性が王位に就いていた。

 

 

彼女達の勇敢さに注目すると、まさに男性のように武器を装備し、男性と並んで対等に戦ったのだ。この誇るべき血統で最も有名なのは、恐らく紀元前205年頃に朝鮮半島を征服した神功皇后だろう。女性が軍勢を戦闘へ率いることができたという事実こそ、社会における女性の地位を高めたことを十分証明している。もう一つ見落とされがちな事実が、文学での女性の貢献である。紫式部が不朽の名作「源氏物語」を執筆したのは、ヨーロッパの女性が文章を書くよりも数世紀前のことだ。その当時を考えてみると、二文化間の女性に関する観念が大きく異なっていることは明らかである。明治から大正期の政治家・知識人・作家である末松(すえまつ)謙(けん)澄(ちょう)氏曰く、平安時代の恋愛模様や人生を描いた文学は、主に女性によって残されていた。またこの時代は皇后や女官の出世と同様に徐々に衰退する天皇らも認知されている。つまり、だからこそ男女平等の観点でいえば、この時代は日本の黄金時代であったと考えるべきであろう。

 

 

Fall of the Feminine 女らしさの転落

韓国の征服は儒教、孟子の教義、仏教の伝来への道を開いた。それらは全て男女平等にとって不利となるものであった。

シドニー・ルイス・ギューリック(作家、日本における宣教師)

紀元前588年、善信尼、禅蔵尼、恵善尼という3人の女性が仏教教義を調査する使節団としてインドへ渡った。女性を差別する新宗教の開拓者が男性ではないことは皮肉ではあるが、事実、女性だったのだ。ギューリック博士は、「仏教が提示する女性に関する観念と理想は明確だ…女性はあらゆる点において本質的に男性より劣っている。女性は涅槃(ねはん)(ニルヴァーナ)の境地に達することを望むならば、まず男性として生まれ変わらなければならない。」と述べる。また、儒学者・貝原益軒氏が述べたように、儒教もまた然りであった。つまり、「女性は夫を主君として持てる限りの全敬意と全崇拝を以て仕えなければならない。一生を通しての女性の義務は侍従することである。」18世紀、このタイプの極端な排他主義を集めたものが出版され、広く読まれたのが、女性のための偉大なる学びを意味する「女(おんな)大学(だいがく)」である。呼応して、イアン・ブルマは著書『マスクの陰に(原題”Behind the Mask”)』の中でこう記している、「紀元前3世紀に卑弥呼が一国の女王となったような、巫女達が支配していた天照大神とイザナミの世界とはまるで違うようだ・・・徳川幕府は女家長制を跡形もなく永遠に根絶すべくあらゆることをした。*」

 

 

Barefoot & Pregnant in the Reiwa Era? 令和の「女性は家にいて子どもを産め」思想

世界の政治的・経済的リーダーの年次総会で知られる国際機関「世界経済フォーラム」が発表した報告によれば、日本は男女平等指数の世界ランキングで(153カ国中)121位に順位を落とした。これは過去最低である。最近では女性受験者の合格者数を制限すべく入学試験の得点を改ざんしていた東京医科大学の不祥事、2018年には前総理大臣・麻生太郎氏による発言「セクハラ罪という罪はない」というような事件が公にされたことは、確実に日本のランキングが下降の一途をたどることに拍車をかけているだろう。日本の性差別のレベルを理解するため調査をする間、筆者はディケンズの名著『二都物語(原題”A Tale of Two Cities”)』の冒頭を思い出していた「それはすべての時世の中で最もよい時世でもあれば、すべての時世の中で最も悪い時世でもあった・・・。」

 

一方で、女性、特に幼い少女はアニメ、漫画、テレビの中で性的対象とされている。地下鉄には日本の習慣かと見まごうほど頻繁に、一般的に起こっている「痴漢」から女性通勤者を救うため「女性専用車両」が設置されている。教育や法律のおびただしい改正は、まさに男性のように望まない配偶者とは離婚することができたり、あるいは、「世帯主」として認識されたりしているような女性達、いわゆる「ニュー・リーガル・ウーマン(新時代の女性)」を生み出す結果となった。これは伊藤詩織氏が、男性と女性双方から受けた反発からも推測できるが、社会全般は女性が法廷で男性に挑むことに不安を覚える。それは大和(やまと)コード(※)を破壊する行為なのである。

 

しかし一方で・・・

 

よくある不公平な偏見の標的とは異なり、日本人女性は少数派ではない。実際、女性は人口の51%以上を占めている多数派なのである。これを念頭に置いて性差別は社会全体で育ててきた問題であると考えると、女性は女性自身の問題において主な役割を担っていると言えるのではないだろうか。これは差別されている人を蔑ろにしているのではない。しかし、平均的な女性の抑圧レベルを考慮しつつも、その抑圧と女性が受ける利益とを並べてみる必要がある。結局、多くの女性(ほとんどではないにせよ)は物事の在り方を変えることに興味がないといえるであろう。

 

女性は、まず夫に影響を与える。よく聞く「夫婦は似ている」という言い習わしも、同じ真実を語っている。繰り返すが、妻は一家の主人であり、家庭内における彼女の力は計り知れない…驚くべきものである。母が好きなものは、子どもも好きであり、彼女の好みが家族の好みになる。*

 大隈重信(元内閣総理大臣/早稲田大学創設者)

日本では性的偏見は両極へ向かっていると言っても過言ではない。「かかあ天下」という言葉には誰もが馴染みがあるだろう。家庭内では妻が実質的に全てを担う慣習が定められているため、家庭では力がなく妻の尻に敷かれた男性のことである。これは経済的なことも含む。言い換えれば、夫は生活費を稼ぐ責任を負っているが給料日には全額を妻へ渡すのである。では、この役割分担を思いついたのは誰だとあなたは考える?男性、それとも女性?

 

著書『結婚と家族のこれから~共働き社会の限界~(“The Future of Family and Marriage”)』の中で立命館大学教授・筒井淳也氏はこう述べる「家父長制はその意味では、社会全体の支配階層の男性、あるいは家族のなかでの男性が、生産力の伸びを抑えこんででも、自らの既得権を維持するためにねじ込んだ不自然な仕組みだと私は考えています。」 別の社会学者、國學院大學教授・水(み)無田(なした)気流(きりう)氏は、昭和(1926-1989)の高度成長期に、年功賃金・終身雇用のような  「女性にとって極めて不利に働く」、いわゆる日本型雇用慣行はつくられた、と指摘する。つまり一体どちらなのか?ソニーのウォークマンの発明以来、現在のシステムは最高のものなのだろうか?それとも、時代遅れと言わざるを得ない、容認し難い性差別メカニズムなのだろうか?「日本で最も有名なフェミニスト」と謳われる上野千鶴子氏は、とてつもない政治的圧力を発揮する「パワフルな日本人女性」についてインタビューでこう語っている。女性は「国家レベルでは目に見えない」そして、「彼女達の主張は女性の問題として即座に認識できないであろう。」しかし、「この女性達の支援なくしては、政治家は地方選挙で勝利することができない」ほどの強い影響が確かにある、と。

 

In Summary まとめ

ふむ、ちょっと考えてみよう。女性は米国牛や反核法等の重要な問題において政府の政策を転換させるに十分な影響力を持っている一方で、自分たちに代わって「性差別法」を改正させる点においては、十分な支持を集められていないように見受けられる。注目すべきは「国家レベルでは目に見えないレベル」と言われながらも、政治において「転換」を生み出すことができる集団というのは、筆者にとっては、無力な被害者というよりは社会の「黒幕」のように聞こえるのだ。おそらく独特の複雑さから、この問題において男性と女性が完全に合意するのは不可能だろう。しかし、卑見を述べるならば、2020年現在でこうあるべきという適切な役割を定義する前にもし、過去の祖先の霊に相談したならば全人類が恩恵を受けるであろう。さらにいうと、もしそうすれば、ただ男性と経済的に対等になるという願望にとどまらず、さらに高い志を立てるに十分な意識を持つであろうと筆者は確信している。だからこそエコフェミニスト評論家・青木やよひの力説に筆者は同意する。「もし、経済的自立が既存の男性社会の構造及び慣行への女性の通行権にしかならないのであれば、大したことは得られていない。*」

 

 

 

*=原文英語/英語より和訳

※大和コード:(訳者注)ヤマトコード。筆者造語。日本人が古くから無意識に従っている暗黙のルールのこと。例)和を乱さないための建前、謙遜。

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